【華翠本部:調理室にて】
セツキの放った銃弾は確かに的を捉えていた。
「ヴェロニカおねえさまをいじめないで」
確かに、しっかりとヴェロニカを狙って撃ったはずのその銃弾は、オリビアが巨大化させたくまさんにて、防がれたのだった。
「僕の銃撃を防ぐだなんて...っ!!」
しかも、あんな小さな子供に...!いや、ヴァリスである以上、子供だからと油断している場合では無いのだ。
セツキはすかさず数歩後退する。
何度攻撃をしても上手くあの大きなくまさんが防いでしまうし、出口は未だ焔の中。
ここは密室の調理室。出口は塞がれ、師匠は正体の分からない毒にて負傷中。
あぁ、腹だたしい、実に、腹だたしい。
【視点:アレクセーエフ】
あぁ、噎せ返るような鉄臭さ。かつて嗅いだことのあるこの篭った赤い鉄の香りも久しく感じる。
つい何時間か前まで、この華翠本部の棟も沈む夕陽を浴びて一日を終えようとしていたのに。
指の感覚がほとんど無い。先程までは指の先が少し痺れるくらいだったのに、気がつけばもう自分の体はまるで他人の物のように感じる。
なんと、美しくないのだろう。
目の前では、可愛い弟子が身を呈して戦っているというのに、この、副隊長である私は、自然毒に犯され身動きがとれない?
不甲斐ない。不甲斐ない、不甲斐ない。
でも、体を全く動かせない訳では無い。足掻くのよ。アレクセーエフ・カーライル。
貴女の努力が無駄ではなかったことを証明しなければならない。貴女は、気高く、美しいのだから。
「セツキくん、私も戦うわ」
「無理をっ」
「無理をするな、と言うでしょうけど、私は帝国軍月血鬼討伐部隊、華翠の副隊長よ。可愛い弟子を前に寝ていられる訳がないでしょう」
己の銃を構える。まだ腕は辛うじて動く。
ここで私の月のカケラを使えば...いや。最悪、セツキくんをここから逃がすことが出来ればいいの。
出口を切り開くことが出来れば...。
そろそろ弱まっただろうか。炎の勢いを確認しよう、と出口を見る。
あぁ、仲間の顔というのは、どうしてこんなにも安心してしまうのかしら。
【華翠本部:調理室にて】
「大丈夫?2人とも!!」
万事休すかと思われた状況に現れたのは遠出の任務から帰還したアシェルだった。
急いで来たのか、軍服のジャケットを羽織っていなかった。
「アッシュ、くん、助かったわ。どうもこんな状況でね...お願いがあるんだけどいいかしら」
その問にアシェルは迷う間もなく「もちろんです」と答えながら調理室の中へと入る。
「出口の炎もだいぶ弱まっている。アッシュくんにはセツキくんを連れて逃げて欲しいの...」
「な、なにを」
「ここは、私が1人で食い止めるわ。貴方たちにはもっとやるべき事があるはずだからよ」
そう言うとアレクセーエフは弱々しい足で、だがしっかりと立ち上がった。
「"毒が回っている"んだ...無理をしてはいけない」
アシェルが不安そうに駆け寄る。だがアレクセーエフも引かない。
「私は戦うのよ!!国民の為に、貴方たちの為に、...己のために」
レッドカーペットを歩くなら、最高に、おめかしをしなければならない。
「...わかりました。ならば、俺達も共に戦います、置いて逃げるだなんて出来るはずがない。ね、セツキ」
この道は、元からこんなに赤かったのだろうか。
「もちろん。僕も、戦います。3人でなら、いけるはずです」
『3人で、ね!』
まさか、レッドカーペットを自分で染めることになるなんて。
【視点:アレクセーエフ】
あぁ、痛い、いや、痛いかどうかもよく分からない。
つい何秒か前。
セツキくんが敵ヴァリスの方へ体を向き直した瞬間、アッシュくんだったそれが銀髪の女性に変わった。コツン、と叩いた杖からでた荊がセツキくん目掛けて伸びたのを庇うのに、考える必要なんてなかった。
その荊は私の腹部と左目を貫いた。
どくん、どくん、脈打つ音がより鮮明に聞こえる。腹部を触ると、暖かなそれが手を染めた。
確かに、今考え直せばアッシュくんの手に武器は無かったし、考えればわかることだったはずよ。
もうきっと、私は助からない。
致命傷を受けた時って、自分で分かるものなのね。実に、滑稽だわ。
セツキくんが辛そうな顔で、こっちを見ている。やめてちょうだい、辛そうな顔は嫌いなの。
「アレクさん!!!」
セツキくんが何度も私の名前を呼ぶ声が聞こえる。でも、あぁ、ごめんなさい、もう己の体温が下がっていく感覚さえも分からないの。
全く、毒を盛るだなんて、考えたものよね、ほんとうに。
今思うと私の人生はレッドカーペットを歩くには充分だと感じるわ。辛いことも、嫌なことも、苦しいことも沢山あったけど、その倍、楽しいことや嬉しいこともあったわ。
こうして、仲間を庇って死ねるなんて、私には価値がある、って勘違いしてしまいそうね。
だから、あぁ、お願いよ。
セツキくん、貴方は逃げて。
【華翠本部調理室にて】
「アレクさん!アレクさん!」
セツキは倒れ込んだアレクセーエフを抱え、名前を叫ぶ。涙をぼろぼろと流し、その雫はアレクセーエフの顔へと落ちる。
「全く、来るのが遅いよ、アル」
「あはは!ごめんごめん!爆破の処理にちょっと時間がかかっちゃって!」
そう愉快に話すのは先程までアシェルに化けていたアルである。
「くそっ!!ヴァリスめ!許さない、許さないぞ!!」
「そんなこと僕に言われても!恨むなら偽物に気づかなかった自分らを恨むんだね〜」
「そもそも、この、アシェルって奴が来てから誰か毒のことを説明した?してないよね。それなのにアシェルの口から『毒』ってワードがでた時点で気づくべきだった」
アルは「あれは僕もちょっとミスったから焦っちゃったよ」と言いながらしゃがみこみ、セツキと目線を合わせる。
「仲間が来て安心した?そうだろうね。だから足元を掬われるんだ」
「じゃあ、君もバイバイだね」とアルが立ち上がり、己の杖を振り上げる、が、その杖は地面をコツンと叩くことはなかった。
アレクセーエフがアルの杖を強く握りしめ、自由のきかないように押さえ込んだのだ。
「セツキくん、早く逃げるの、今のうちに、はやく!!」
「アレクさんを置いて行けるわけが!」
「馬鹿者!!!私を部下1人、弟子1人守れない副隊長にさせないで!!」
その言葉にセツキはぐっと唾を飲んだ。
こんなに緊迫した表情で叫ぶアレクセーエフは初めて見た。
「早く行きなさい!!!」
「...っくそ、くそ!!」
セツキは己の武器を持つと弱まった出口の炎へ向かって走った。
「必ず、応援を連れてきます、必ず、かならず!!!」
そのセツキの後ろ姿を見送ったアレクセーエフは安心した表情で目を瞑る。
「最後に、師匠らしいこと、できて、よかった、わ」
あぁ、腹の痛みが、じんわりと滲む。己の涙なのか、血なのか、それともセツキの涙なのかもわからないものがたらりと、頬を流れ落ちた。
せめて、最後の力を振り絞って、悪あがきでもしようじゃないか。
アレクセーエフはもうほとんど無い腕の力で己の拳銃を握り、その刃先で斬り裂いた。
突如、広がるのは花畑。綺麗な、色とりどりの花畑。楽園があるとするならば、この花畑のように美しいのだろうか。
掛替えの無い人生、それが人間の全てだ。
それを信じて、私は生き、私は死んでいく。
___アレクセーエフの月のカケラが砕けた。
【華翠本部調理室-夕刻-】
「あ〜あ、あいつ、逃がしちゃったよ」
アルが少し残念そうに呟く。
「まぁいいんじゃない?ひとり、目的は達成したんだし」
「あの人は、もう動かないの...?」
とオリビアが尋ねた。その視線の先にはぐったりと倒れ込んだアレクセーエフの体がある。やはり、幼い子供に生死の瞬間を見せるのはあまりにも、酷だ。オリビアが手に持つそのぬいぐるみはぎゅっと握り締められている。それは本当に人が死んでしまった事への恐怖か、又は________。ぎゅっと力の入ったその小さな拳だけが真実を知っているのだろう
「ん〜あぁ、そうかもね、でも、見ただろ最後の花畑。死んだんじゃなくて、楽園に、遊びに行ったのかもよ」
ヴェロニカがぶっきらぼうに呟く。「子供の教育に悪いし、もう行こうぜ」とアルを促した。確かに、小さな子供には辛い光景かもしれないが、人間を酷く憎んでいるオリビアにとってそれは救いにもなり得るのではないだろうか。
そうして3人は調理室を後にした。
残されたアレクセーエフの顔は、後に隊員の知らせによると、うっすらと、微笑んでいたそうだ。
【華翠本部:3階にて】
「...ラブ、か...」
フェンリルはラブに背負われる形で目を覚ました。
そこは華翠本部の3階。人が逃げたあとなのか、人の気配は無い。
「ん、リル、おはよう、もう歩けるかな?」
「はい、ボス。心配をお掛けしました」
「無理はしてない?」
「もう大丈夫です」
そんな2人の優しさに少しこころがほっこりしたのもつかの間、フェンリルはやらなければならないことを思い出すのだった。
「すいません、助けていただいてすぐにこんなことを言うのも烏滸がましいのですが、自分の私情をひとつ、叶えては頂けないでしょうか」
そのフェンリルの改まった表情にルアとラブは不思議そうにするも、「いいよ、ただし、長居は出来ないからね」と答えた。
そうして3人は華翠本部を離れ、帝国軍本部、医療棟へ行くのだった。
【華翠本部:医療棟】
「ところで、ここに来た理由を聞いてもいいかな」
ルアは走りながらフェンリルに問うた。素朴な疑問。なぜ、医療棟などに。
「約束を、したからです」
それしか答えないフェンリルにルアとラブはそれ以上詳しく聞こうとはしなかった。フェンリルが約束を果たそうとしているのに、それを邪魔する理由が特段なかったからだ。ADELAにはADELAの信頼があるのだ。
人間は他人を信じることができる、という点を美徳にしているが、はたしてそれは本当に美徳なのだろうか。信用は、信頼は、人間の美徳、と言えるのだろうか。
それなら、ヴァリスの美徳...とは?
「あそこです」
医療棟をしばらく走るとそこには、2、3人の警備のついた個室。
おそらく、帝国軍の一般兵士。訓練はさほど積んでいない、医療部の者だろうか。丸腰で、まるで怖さを感じない。
「ここは、おまかせを」
そう言い放つとフェンリルは警備員をいとも簡単に気絶させた。丸腰の警備員とて無抵抗では無く、威嚇のような声をあげるも虚しく顔を地面へ落とすのだった。
「お、やるぅ」
そう話すとラブも個室の扉の前へと歩み寄る。その後にルアも続く。
「これくらいのことができなくて、ADELAの幹部は名乗れませんからね」
フェンリルは涼しそうな顔をしている。先ほどまでぐったりとし、ラブへ背負われていた者には見えない。
フェンリルはスムーズな手つきで個室のロックを解除する。ピーという解除音と共にその重そうな扉を押すと、そこにはベッドで眠る一人の少女がいた。
【華翠医療棟-個室にて-】
「なるほどね、ロベリアちゃんね」
ラブは納得した表情で頷いた。
「けど、彼女をこうしたのも俺たちの作戦通りなわけだし、なにかあの隊長さんと約束でもしたわけ」
不思議そうなラブにフェンリルは「...結んだ約束は必ず守る」とだけ静かに答えた。
「...彼女を助けることは出来るだろう。だが、その後彼女が元通りの生活を出来るかどうかの保証は出来かねない」
「と、いうと?」
フェンリルのその不確かな回答にラブとルアは不思議そうに考えた。
「いや、確かにリルの能力を使えば、ロベリアちゃんが目を覚ますことは可能だろうね」
ラブはう〜んと考えて「でもやっぱり保証ができないってところがしっくり来ないな」
「彼女に打ち込んだ薬の、成分、ということかな」
そう呟くルアは何処か確信を得たようだった。
「そうです。以前ラブさんに頼んで彼女に打ち込んで貰ったあの薬は俺たちのヴァリスの体液から作られている」
「その成分の効果で彼女はあれから目を覚ましていないのは作戦通りだ。だが、その成分が人間にはめ込まれた月のカケラに無影響かどうかの保証はできない」
「過去にカケラをはめ込んだ人間の血を吸ったヴァリスはいただろうか。俺の調べた限りだと0だ。俺たちヴァリスと月のカケラの繋がりは断ち切れないものだと考えている」
そこまで聞くとラブもピンときたのか、納得の表情だ。
「ここからは完全に俺の憶測だが...」と話すフェンリルは、「いや、」と口を噤んだ。
「どうしたの?」と問うラブにフェンリルはどこかはっきりとしない様子だ。「憶測でことを話すのはあまり好まない...。とりあえず、約束を先に果たそう」
そう言うとフェンリルは己の月のカケラの能力をロベリアへと使用する。青ざめたロベリアの顔色はじんわりと血色が戻っていく。
10分ほどだろうか。フェンリルの「おそらく大丈夫だろう」というセリフでロベリアの治癒作業は終了した。
「ん〜で、さっき言ってた憶測の話、気になるんだけど」病室を後にした3人だったが、ラブはフェンリルの放ったその一言がまだ気になっていた。
「言えないことなのかい?」とルアがフェンリルの顔を覗き込むと「いや...」とまたフェンリルは俯いた。
「これは完全に俺の知識と経験から考えた憶測でしかないんですが、彼女は...」
「彼女は目を覚ますでしょうが、おそらく月のカケラの能力は使えなくなります」